伊賀サテライト三重大学地域拠点サテライト

伊賀研究拠点
お知らせ

山室城跡を訪ねて

加藤 進 社会連携特任教授

 以前から調査したかった山室城跡を攻めました。なかなか位置がはっきりしませんでしたが、地元の郷土史研究家の松本薫氏に案内地図をいただき、やっと調査ができました。今回は山室城最後を示すと言われている妙楽寺の"血天井"も取材しましたので合わせて報告します。

カシミール3Dでこれまでの報告してきた城跡の相対位置を確認しておきます。こうしてみると髭山からの情報が黒米山を通して堀坂山→阿坂城跡と堀坂山→大河内城跡の流れを見ることができます。ただし大河内から山室は真ん中の山が邪魔をして見えず、迂回路か堀坂山~山室の直接ルートも考えられます。こうしてみると堀坂山はかなり重要な位置をしめていることがわかります。近いうちの霧山城(北畠の本城)を調査する予定で、その地点を落とすと狼煙のnetworkが明らかになります。地図に城館の正確な位置をプロットしていくと、見えなかったものが見えてくるようです。

 山室城跡も小規模な、単郭構造かと思われます。民家の玄関口から、急峻な登りです(個人所有の山です。必ず声をかけましょう!)。ジグザグしたのぼりをへて15min位で頂上に着きます。H=86mです。はっきりした虎口はありません。曲輪のヘリには石碑が立っているのみです。私の2回目のスケッチをごらんください。南に堀切があり、尾根沿いに3m程度の広さが続いています。この先は工業団地で遮られます。

曲輪にはやはり、数個のくぼ地があります。あるいは極めて薄い土塁囲いと言うべきでしょうか?残念ながら私の目では判断はできません。それほど曲輪も13m×15mでそれほど広くありません。ここにどんな砦があったのかなかなか想像できないです。

この写真は、登り口からみた曲輪の全景です。だいたい円形をしています。矢印の先に堀切がはっきり残っています。


写真 曲輪下の堀切の底

北畠軍と織田軍の激戦です。結局、山室城は落ちてしまいます。伝説によると、山室城の「最後の惨劇を物語る廊下=血のりの附いた足跡」を天井に張った「血天井」が、近くの妙楽寺に残っています。私が、子供のころは遠足のお決まりのコースでしたが、名刹も今は無住です。天井は暗くてはっきりわかりませんが、何やら足型のような模様が見えます。昔はもっとはっきりしていたように思えます。

 なお、ある寺の住職によると、「大河内城からあがった狼煙は山室城から見えたのではないか?」という話でしたが、計算してみるとこれは無理なようです。

 ちょっと余談になりますが、妙楽寺の近くに国学者、本居宣長の奥墓(おくつき)があります。彼の辞世の句が石碑に刻まれています。

 次回は、伊賀に戻り、柏原(瀧野)城跡を報告する予定です。ご期待ください。


妙楽時の血天井

アーカイブを表示